私は、「一生一品」となるお菓子を
まだまだ探し続けています。

東京都台東区

パティシエ イナムラ ショウゾウ

オーナーシェフ

稲村 省三

メープルシュガーケーキ

内山 稲村シェフのパティシエ人生の中で、ひとつだけお菓子を選んでご紹介いただくとするならば、どのようなお菓子が「一生一品」になりますでしょうか。

稲村 いいえ、今の私には「一生一品」になるようなお菓子はありませんが、信念のようなものはあります。“自分の人生をつなげていくために、すべて自分から一歩踏み出す”ということです。私は目の前の小さなものをひとつひとつ自分で拾って結び、一本の糸につないで来ました。
 実は私はフレンチの料理人になりたかったのです。当時は、ちょうど新宿副都心に京王プラザホテルが建設中で、あんなに高い建物はまだまだありませんでした。調理師学校のあった高田馬場からどんどん高くなっていく摩天楼を見ながら、「時代は大きく変わる、だから俺は海外に絶対に行く。」と心の中に火がついていました。19歳の冬のことです。
 卒業した後、ホテルの厨房への就職を希望しましたが何のツテもないためにかなわず、ウェイターから社会人を始めました。次にヒルトンホテルへ移り料理人を目指しましたが、「皿洗いへ到達するために待っている社員があなたの前に35人いますよ。だいたい5年かかります。」と言われました。それでも我慢だと自分に言い聞かせ、バーの見習い、そしてベーカリーで料理人の順番を待ちました。大きな宴会も多く料理人と一緒に仕事をするようになって、肉や魚のような主役の食材ではなく、小さなものを寄せ集めながらひとつのものをつくっていくベーカリーの仕事が自分には合っていると感じ始め、特にペストリーの仕事に興味がわき始めたのです。そこで、24歳の時にペストリーを希望して仕事を始めました。しかし、24歳で一番下っ端からのスタートですから、かなり辛い思いをしました。

内山 稲村シェフは一直線にパティシエになられたと思っていましたので、意外なお話を伺いました。

稲村 そんな環境が面白くなくて自堕落な生活をした時期もありましたが、そんな私を立ち直らせてくれたのは19歳の時に火がついた海外への想いでした。そうしてコツコツと仕事をしているところへ27歳の時にスイス行きの話をもらいました。夢のようでした。
 今はありませんが、“ホテル・デ・ベルグ”というホテルで5つ星でした。しかし、そこでは私の思うようなことは学べず、翌年、フランスへ移りました。
 フランスでは、日本から来たパティシエがみんな集まるホテルセントラルに住みました。日本から紹介状を持ってくる人たちはどんどん就職が決まりましたが、私には紹介状がなくずいぶん悔しい思いをしました。寝る所も、食べる物も、働く場所も、全部自分から一歩踏み出さないと何も始まらなかった。そんな逆境の中、シャルル・プルーストで銀賞、アルパジョンでも2位を勝ち取ることで、「ジャポネ」と呼ばれていた私が、やがて「ムッシュ稲村」と呼んでもらえるようになりました。そのことは私の誇りです。
 帰国して長年お世話になったホテル西洋銀座も、何のツテもなく試験を受けて入社しました。試験では誰もしなかったことが認められたのですが、これもフランスでの厳しい経験が生きていたのだと思います。

内山 稲村シェフにはホテル西洋銀座の頃からバッケンをお使いいただいておりますがいかがですか。

稲村 やはり色ムラがないことと気密性の良さ、そして、しっとり感、まずそれですね。日本の風土と、日本人の味覚に合ったものを考えればバッケンは最適だと思います。今回は「メープルシュガーケーキ」をご用意しましたが、これは“しっとり”と、“カリカリ”を一緒にしたケーキで、食感の面白さと香りを楽しんでいただけます。これも、気に入った一品ですが、私にとっては、まだ、一生一品ではありません。それはきっと50年後にわかることかもしれません。

材・ライティング

七洋製作所 代表取締役社長
内山 素行(うちやま もとゆき)

小さな頃から空手を学び、その上達とともに空手の魅力に引き込まれる。空手道の全日本大会で3度の日本一となる輝かしい経歴を持つ。空手で会得した相手との技の駆け引きや、間合いの読みはビジネスの極意にも通じる。時代を読み、常に新たな展開を提案する内山氏は、菓子業界で“菓子店の羅針盤”と呼ばれ、菓子づくりを志す職人が認めるオーブン「バッケン」を製造販売する株式会社七洋製作所の代表取締役社長をつとめる。自らの発想でつくりあげたオーブンは、日本の通商産業省が設立したグッドデザイン賞を3回も受賞する快挙を成し遂げた。1956年、日本国 福岡県生まれ。

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