りんごのロマンス
内山 佐野社長の人生の中で、思い出深い一生一品はどのようなお菓子でしょうか。
佐野 私は和菓子屋の息子として小さな時から仕事を手伝っていました。菓子づくりの素養はこの頃つきました。三男坊だった私は家を出て北海道に永住し牧場をやりたいと思って、高校卒業後に北海道の本格的な牧場で酪農の実習生として2シーズン働かせてもらいました。
そんなある日、冷却水で冷やしている搾乳された乳の上に浮かんだドロッとしたものをなめさせてもらった時、そのおいしさに感動しました。それは無殺菌の原乳の生クリームでした。そして突然「これでケーキをつくったら」と思ったのです。もう45年位前の話で、生クリームはそれほど普及しておらず、コンパウンドのクリームがほとんどでした。バタークリームが主体で生クリームのケーキはなかった時代です。こうして私は乳の魅力に引き込まれるように製菓学校へ入学したのです。そして、製菓学校を卒業後は、銀座の「エルドール」に勤めました。当時「エルドール」の人気はどんどん高まっていて店も輝いて見えました。場所柄、歌手や有名人の方の特注デコレーションの注文が多く、店のお菓子が徐々に細工菓子に変わって行きました。私も店売りで当時1万円のケーキをデザインしてつくらせていただきました。
こうして華やかな銀座の菓子をみっちりと7年間学んで意気揚々と神戸に帰り、28歳で独立しました。しかし、順風満帆とはいきませんでした。私のつくるケーキはあまり売れなかったのです。もともと独立にあたっては、銀座とは違う神戸の地域性を考えて、銀座の小ぶりのお菓子を少し大きくしたりして神戸のお客様に合わせたつもりでしたが売れませんでした。閉店後、ショーケースに残った生ケーキを捨てるのが悔しくて悔しくて、シャッターを閉めながら「畜生!」と何度も叫びました。本当につらかったです。
内山 おいしい菓子がなぜ売れなかったのでしょうか?
佐野 私もずっと悩みました。ある方から「銀座でやっていたからといって、時代の1歩も2歩も先に行ったらいかん、半歩先を行きなさい。」と言われました。自分では半歩先だと思っていても実際は2、3歩進んでいたようです。パート・ド・フリュイを見たお客様に「これは羊羹ですか?」と聞かれたり、バニラビーンズをご存じないお客様に「シュークリームにゴミが入っていたので全部捨てたよ。」と言われたりしながら、ようやく神戸でじっくりと腰をすえてやっていこうと心が決まりました。
今回ご紹介させていただく「りんごのロマンス」はそんな創業時に発売して大ヒットした焼き菓子です。パイは手折り、りんごは風味を大切にするために一滴も水を使わないで煮る「エルドール」と同じ仕込み方です。「エルドール」ではりんごのパイがホールで驚くほど売れましたが、地元に合わせて「りんごのロマンス」という親しみやすい名前を付けて大きさも形も変えました。
おかげさまで他のお菓子が焼けないほど売れる人気菓子になりました。自分が学んだ菓子をようやく時代の半歩先の位置で提供できる手応えをつかみました。しかし、地元のお客様に喜んでいただけるお菓子を一つでも多くつくるために、もっとほかの菓子にも挑戦したかった私は、結局これを品揃えから外したのです。それ以来「りんごのロマンス」は販売していなかったのですが、ようやく5年前に復活させました。当時を知るお客様からも大変好評で、神戸でとことんやろうと心を決めた当時を思い出させてくれる大切な菓子です。
内山 佐野社長にはバッケンと随分長くお付き合いいただいておりますが。
佐野 そうですね、長くなりましたね。私は「情熱は不可能を可能にする」という言葉がとても好きなのですが、燃え上がる情熱がなかったら菓子職人の仕事はできません。バッケンの気密性など、性能の良さは私が言うまでもないでしょう。その精度を貫くような性能からは、物づくりの魂を感じます。厳しい時期も一緒に乗り越えて、今まで私の職人魂や情熱を長い間支えてきてくれたバッケンに感謝しています。
取材・ライティング
七洋製作所 代表取締役社長
内山 素行(うちやま もとゆき)
小さな頃から空手を学び、その上達とともに空手の魅力に引き込まれる。空手道の全日本大会で3度の日本一となる輝かしい経歴を持つ。空手で会得した相手との技の駆け引きや、間合いの読みはビジネスの極意にも通じる。時代を読み、常に新たな展開を提案する内山氏は、菓子業界で“菓子店の羅針盤”と呼ばれ、菓子づくりを志す職人が認めるオーブン「バッケン」を製造販売する株式会社七洋製作所の代表取締役社長をつとめる。自らの発想でつくりあげたオーブンは、日本の通商産業省が設立したグッドデザイン賞を3回も受賞する快挙を成し遂げた。1956年、日本国 福岡県生まれ。