リーフパイ
内山 山本社長の“一生一品”をお聞かせいただけますでしょうか。
山本 そうですね、バームクーヘンと言いたいところですが、今は「リーフパイ」にさせていただきます。
私は20歳を過ぎた頃に、父の会社の洋菓子工場に入って菓子をつくり始めました。しかし、もともとはデザイナーになりたいと思っていましたので、洋菓子の仕事がどんなものか全く考えずに入社しました。要するに“一番楽に給料を稼ぐため”、それくらいの動機でしたから家業を継ぐとか、たねやの次男だというような意識は全くありませんでした。
そんな私の意識を大きく変えたのはコンテストとの出会いでした。コンテストに出場することで凄い技術や表現力を持ったパティシエに刺激され、“私もあんな風になりたい”と思い仕事への取り組み方も変わりました。
しかし、せっかく頑張り出しても“たねやの洋菓子”から始まったクラブハリエは“たねやのお荷物”とさえ言われ大赤字でした。経理スタッフはもちろん、すべての人から「コンテストで良い成績を上げるよりも、まずは利益を出すことを考えなさい。」と厳しく言われ、20代の前半から30歳手前までずっとコンテストへの出場は禁止。こうして初めて経営的な視点でクラブハリエを見るようになったのです。
そこで力を入れたのがバームクーヘンでした。自分が最初に教わったお菓子でしたし、子供の頃に父親の工場で遊んでいて、焼き上がった丸太のようなバームクーヘンにかぶりつくと夢のようにおいしくて、バームクーヘンはそんな自分の思いがいっぱい詰まったお菓子だったからです。
どうやったら売れるだろうと考えるよりも、子供の頃の感動をお客様にも感じてほしかった。父は何も私に教えてはくれませんでしたが、子供心に覚えている菓子をつくる仕事場の父の背中は私の師匠だったのです。
内山 ある意味では英才教育とも言えますね。
山本 そんな大袈裟なものではなく、小さな頃の生活の一部でした。今、一生懸命に取り組んでいる「リーフパイ」もバームクーヘンと同じクラブハリエの歴史のひとつです。バームクーヘンがヒットする前は「リーフパイ」がクラブハリエの柱でした。ですから「バームの次は何?」と考えると、次は何で仕掛けてやろうというよりも、「リーフパイ」にもう一度力を入れたいと考えるのはとても自然でした。出てくる思いをそのままお菓子にしています。ですから、今、私にとっての一生一品は「リーフパイ」なのです。
創業時から変わらないバターたっぷりの香ばしい味わいと、ほのかな甘みは守り続けた伝統のおいしさです。シンプルな素材の組み合わせだからこそ仕上げに心を込めます。一枚一枚葉脈を手で入れています。どれ一枚として同じリーフパイはありません。こうしてつくった「リーフパイ」はギフトにした時の存在感が違います。軽くても、重さを感じるのです。
内山 大きなヒットをお出しになったクラブハリエ様が、次はどこに向かっているのだろうと気になっておりましたが、原点回帰されていたのですね。
山本 今は七洋さんの「リムジン」を入れて、日々、生産性の向上を目指しています。「リムジン」で焼いた「リーフパイ」はバッケンで焼いたものと品質は変わらず、見事に量産してくれます。これからの洋菓子店はお菓子の品質を高め、作業効率を高め、労働環境を高めなくてはならない時代に入ったなと感じます。
おかげさまでクラブハリエの経営が良くなるとともに、禁止されていたコンテストへも出場させていただき、2010年にアメリカで行われたWPTCで世界一、今年のクープ・デュ・モンドのフランス、リヨンでの大会では準優勝をいただきました。体は若い頃のようには動かなくなりましたが、あの頃と情熱は全く変わりません。
取材・ライティング
七洋製作所 代表取締役社長
内山 素行(うちやま もとゆき)
小さな頃から空手を学び、その上達とともに空手の魅力に引き込まれる。空手道の全日本大会で3度の日本一となる輝かしい経歴を持つ。空手で会得した相手との技の駆け引きや、間合いの読みはビジネスの極意にも通じる。時代を読み、常に新たな展開を提案する内山氏は、菓子業界で“菓子店の羅針盤”と呼ばれ、菓子づくりを志す職人が認めるオーブン「バッケン」を製造販売する株式会社七洋製作所の代表取締役社長をつとめる。自らの発想でつくりあげたオーブンは、日本の通商産業省が設立したグッドデザイン賞を3回も受賞する快挙を成し遂げた。1956年、日本国 福岡県生まれ。